差別についてネット上(主に Twitter)で話題になってますね。
発端となったパクチー盗難事件からはだいぶ逸れた感がありますが……。
それに関連して思うところがあるので、書き記しておこうと思います。
「(自分の中に)差別という概念はない」というのはね、やっぱりまずいんじゃないかと思うんですよ。
そんなお話。
※パクチー盗難事件については特に何も書きません。
「差別という概念はない」の怖さについて
まずは実際の発言を確認してみましょう。
僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない。差別反対と言いながらこの単語を使うと自分のなかの大切な何かが分け隔てられてしまう怖さすらあります。ツイートすることすら憚れるような下劣な言葉がTLに散見されることはもっと怖いです。今すぐ削除してください。続→ https://t.co/xhwKU7h1Nx
— つるの剛士 (@takeshi_tsuruno) September 11, 2020
僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない。差別反対と言いながらこの単語を使うと自分のなかの大切な何かが分け隔てられてしまう怖さすらあります。ツイートすることすら憚れるような下劣な言葉がTLに散見されることはもっと怖いです。今すぐ削除してください。
「差別という概念はないですし、意識をすることもない」
これですね。
こういう考え方、本当に非常に危険だと思うんですよ。
「自分は差別なんてしていないし、差別したこともないし、これから差別することもない」
と言っているに等しいんですよね。
それはまぁ理想論ではありますが、実際問題としてそんな聖人みたいな人は居ません。
差別の大半は無意識です。
ほとんどの人は「差別は悪いことだ」という認識を持っていますよね。
それでも差別が無くならなかったり、新しい差別が生まれたりするのは、差別している人にその自覚がないからです。
「自分たちは正しいことをしている」
「間違ったことなんてしていない」
そう思っているからこそ、本人はその行動を改めようとはしないんです。
黒人を差別している人も、女性を差別している人も、それが差別だなんて思ってないでしょう。
「それは差別だ!」と批判された人が反論するとしたら、おそらく「差別ではない!」ですよね。
「そうだ、差別だ! 差別して何が悪い!」とはならないはずです。
「黒人はこの店に入るべきではない」
「女性は男性の仕事の補佐をして、家のことをやっていればいい」
それが「正しい」と本人が思っているからこそ、差別が差別として残り続けるんです。
差別と思っていないから、差別が無くならない。
なんとも皮肉な話ですが、それが現実です。
さて、「差別という概念はない」と発言した人の中に、無意識の差別は本当にないんでしょうか?
こちらのツイートを読んで、考え直してみてほしいですね。
『僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない』差別しないためには、まず差別を意識することが大事なんですけどね。ご本人そのつもりは無いと思いますが、これ一歩間違うと「僕は無意識に差別するタイプです」っていう"宣言"なんですよね。https://t.co/DHqmLbgZe2
— ぜんじろう (@zenzenjiro) September 13, 2020
『僕は生きていて、そもそも差別という概念はないですし、意識をすることもない』差別しないためには、まず差別を意識することが大事なんですけどね。ご本人そのつもりは無いと思いますが、これ一歩間違うと「僕は無意識に差別するタイプです」っていう"宣言"なんですよね。
『エッ』となる瞬間
「無意識の差別」について、とても秀逸な表現がありました。
アメリカのコメディアンが「自分は表立って差別はしない。でも『エッ』となる瞬間があるんだ。例えばピザ屋に入った時、店員が全員黒人だったら『エッ』ってなってから『何も問題はない、珍しいな』となるんだ」と言っていたんだけど、内なる小さな差別感情について上手く掬い上げているなと。
— えりぞ (@erizomu) September 13, 2020
アメリカのコメディアンが「自分は表立って差別はしない。でも『エッ』となる瞬間があるんだ。例えばピザ屋に入った時、店員が全員黒人だったら『エッ』ってなってから『何も問題はない、珍しいな』となるんだ」と言っていたんだけど、内なる小さな差別感情について上手く掬い上げているなと。
この「『エッ』となる瞬間」がとても大事です。
自分でも気付いていなかった、小さな小さな差別の種。
これに気付けるかどうかで、その後の自分の行動も大きく変わります。
同じコメディアンは、こうも言っていたそうです。
みんなそんなに簡単に小さな差別感情を捨てられるのかって話。コメディアンは「人通りの少ない道で一人、フードを被った黒人が前から来る。『エッ』となるんだ。深呼吸して『大丈夫、問題ない』と自分に言う。でも、『エッ』ってなるんだよ」と続ける。自分の心の自然な動きと、どう付き合うのか。
— えりぞ (@erizomu) September 13, 2020
みんなそんなに簡単に小さな差別感情を捨てられるのかって話。コメディアンは「人通りの少ない道で一人、フードを被った黒人が前から来る。『エッ』となるんだ。深呼吸して『大丈夫、問題ない』と自分に言う。でも、『エッ』ってなるんだよ」と続ける。自分の心の自然な動きと、どう付き合うのか。
無意識の差別が不意に顔を出したとき、意識的に「問題ない」と自分を落ち着かせる。
これができるのは「『エッ』ってなる」感情が差別であることを自覚・認識しているから。
「差別という概念はない」という人に、果たしてできるかどうか。
自分も差別してしまうかも知れない。
もしかしたら今も誰かを差別しているかも知れない。
そうやって自分を疑い続けないと、自分の中の差別感情には気付けません。
それに気付けなければ、行動を改めることもできません。
『エッ』ってなる瞬間に気付けるのは、自分を疑い続けている人だけ。
「自分は差別することなんてない」と思い込んでいる人は、何にも気付かず差別感情を抱えたまま。
どちらの姿勢で臨んだ方が、この世から差別を減らせるでしょうか?
答えは明白ですよね。
いじめと差別
「いじめられた方はずっと覚えているが、いじめた方はまったく覚えていない」
「それどころか、当時もいじめていたとは思っていなかった」
という話はよく耳にします。
【うさぎ】「いやいやいやいや言うてちょっとの罪悪感くらい…………………あ、ないんだ…………………………」 pic.twitter.com/xI7uiQF6NQ
— うさぎのみみちゃん😇8/19,20あべのキューズモール (@usagitoseino) September 16, 2020
これ、差別も同じような構図だと思うんですよね。
差別された方は死ぬまで(あるいは死んでも子々孫々まで)覚えているのに、差別した方はまったく覚えていないし自覚すらない。
いじめも差別も、基本的には強者から弱者へ向かうものです。
強者の立場にある人は、自分が強者であることに案外気付きません。
体格、財力、社会的地位、あるいは性別や人種など、あらゆる要素によって人々の強弱は決定されます。
その中には自分の力で手に入れたものもあれば、生まれたときに初めから用意されていたものもあります。
この先天的とも言うべき「強さ」に、人はなかなか気付きません。
象がアリを踏み潰しても、気にも留めないように。
本当に無意識って怖い。
知らず識らずのうちに誰かを傷付け、下手をすれば死の淵まで追いやってしまうかも知れない。
そのことにもうちょっと自覚的になるべきなんじゃないのかなぁ。
と思います。
子の差別感情は親の責任
なんで僕が差別についてこんなにいろいろ書くかというと、「子どもに変な感覚や感情を植え付けたくないなぁ」と思うからです。
もちろん自分が差別することがないようにしたい、ということもあるんですけどね。
今の我が子(1 歳 7 ヶ月)には、おそらく差別感情なんてものはありません。
誰かをバカにしたり見下したりすることはないし、「女はこのオモチャで遊んどけ!」ということもないでしょう。
それは、子どもにはまだ「基準」がないからです。
「これが普通」「これが正しい」という基準がないので、差別のしようがないんです。
これから成長の過程で、いろいろな「基準」を獲得していくことでしょう。
ひょっとしたら今でもすでに「保育士さんは女の人ばかり」くらいのことは思っているかも知れません。
それが一つの基準になり、いずれ「保育士は女性が担うもの。男性は保育士にはなってはいけない」なんて差別に繋がる可能性もゼロではないんですよね。
大げさではなく、差別ってのはそうやって生まれるものだと思います。
だからこそ、親である僕たちがしっかりと自分を監視して、差別感情と向き合わないといけません。
「あぁ、これは差別だったのか」と気付き、自分の中から排除することで、子どもに受け継がれる差別を一つ減らすことができます。
そうやって地道に知識や感覚を更新していくしかないんですよね。
なので、日本を代表するイクメンの一人(とされている)があんな発言をしているのを見ると、心底不安になるというか、なんとも言えない恐怖を感じるというか……。
何より子どもたちのことが心配です。
大丈夫なのかな……。
子どもは親の行動を本当によく見ています。
すぐ真似したがるし、どんどん吸収して成長していきますよね。
差別も当然その中に含まれています。
完全になくすことは難しいと思いますが……。
なるべく減らしていきたいなぁ。
そう思いながら僕は今日も自分を疑い続けています。
【追記】デフォルトマンの特権
ほぼほぼ書き終わったところで、面白い記事を見付けてしまったので追記。
»男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(1/8)
この記事では『男らしさの終焉』という本をメインに据え、男性優位の社会システムや「新しい男性像」について考察・紹介しています。
僕が言いたかったこと(無意識の差別の存在、強者の無自覚など)が、具体的な事例を挙げながら分かりやすく解説されています。
もうちょっと早く読みたかった(^^;)
特に「デフォルトマン」という考え方は面白いですね。
社会システムの「デフォルト」に位置付けられている人(の属性)のことで、これに重なる部分が多い人ほど社会からの恩恵を受けやすいとのこと。
ペリーが暮らすイギリスにおいては、デフォルトマンは男性であるということ以外に、白人・ミドルクラス・ヘテロセクシュアル(異性愛)といった属性を持っている*2。彼の収入は多く、地位や学歴も高い。権力の中枢により近いところにおり、マナーもよく、愛想もあって、自信に満ち溢れている。
男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(2/8)
面白い記事なのでぜひご一読を。
その中でも印象的な部分をいくつかピックアップしてみます。
重要なのは、デフォルトマンにとってはこうした特権があまりに自明で、それを持っていることに気づけないという点だ。ペリーは、この特権を「魚にとっての水のようなもの」だと表現している。言い換えればデフォルトマンは、その特権や、背景にある属性間の不均衡(例えば男性/女性、日本人/在日外国人、上流・中流/下流階級など)を認識せずにすむ特権を持っている。
男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(2/8)
デフォルトマンを基準に作られた社会において、彼らは自分たちこそが「普通」であると思っているし、「普通は~」という言葉とともに自身の(恵まれた環境を前提とした)価値観を周囲に押し付けて、価値観に沿わないものを「普通ではない」と見下して排除してきた。
男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(3/8)
こうした競争的な傾向や、自分で自分をおいつめるようなふるまいについて、ペリーはそれが男性の頭の中にいる「司令官」の無意識的な命令によるものだと書いている(p.20)。司令官とは男性の中に内面化された、あるいは社会全体に蔓延する男性規範を擬人化したものだ。
司令官は男性の特権を維持したがっていて、さまざまなソース(両親、教師、友人、映画、テレビ、書籍)を基にして男性たちに指示を与える。司令官は、完璧な男性モデルを組み立て、それを目標にして生きることを繰り返し要請するのである。指揮下にいる男性たちは何かにしくじると、自分に価値がないと感じ、自己嫌悪に陥ったり不満を他人に向けたりするのである。
男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(4/8)
例えば、フェミニズムや男性学に触れた男性たちが「自分も昔は男性規範に縛られていた」「以前は差別的なふるまいをしたことがあった」と、"過去形"を使って、まるでさっぱりと生まれ変わったように自分を語っているのをよく見かける。ここには、「私はもう縛られていない」「全く差別をしない」という含意があり、他の男性と違って自分は正解が「わかっている」という意識が存在する。
そして「わかっている」男性が「わかっていない」男性を軽んじ、上から目線で啓蒙していくような、「男の物語」が再び編み出されていくことになる。
男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか(西井 開) | 現代ビジネス | 講談社(7/8)