1995(平成 7)年 1 月 17 日、午前 5 時 46 分。
この数字を一生忘れることはありません。
淡路島北部を震源とする「兵庫県南部地震」が発生し、これによって「阪神・淡路大震災」が引き起こされました。
あれから 25 年。
当時中学生だった僕も、今やアラフォーです。
時の流れは早いですねぇ。
僕にとってこの震災は、「父親」という存在を定義付けるきっかけになりました。
それは、地震発生時のある出来事があったから。
当時のことを思い出しつつ書いてみます。
地震発生時に父親がとった行動
兵庫県南部地震が発生した当時、僕は中学 2 年生でした。
三学期に入り、当日は確かマラソン大会が予定されていたと記憶しています。
その当時、僕は自分の部屋がなく、両親に挟まれるように寝ていました。
いわゆる「川の字」ってやつです。
母親は朝早くから弁当の準備のために起きていて、僕と父親だけがまだ寝室に居ました。
午前 5 時 46 分、突然の衝撃で目が覚めました。
今となっては「縦揺れ」と表現できますが、そのときは「地面が落ちた」と思ったんです。
何が原因かは分からないけど、とにかく「落ちた」。
その瞬間はそうとしか考えられませんでした。
何が何だか分からないうちに、気が付いたら布団をかぶって体を丸めていました。
と、そのとき僕の体の上に何かが乗ってくる衝撃が。
「何かが落ちてきた?」と思ったのも束の間、
「頭出すなよ! じっとしとけ!」
という父親の声が聞こえてきました。
そう、僕の上に父親が覆いかぶさってきてたんです。
誰もが想像もしていなかったこの状況で、咄嗟の判断で僕をかばうように覆いかぶさってきた……。
これはもう驚きというか、感動というか、何と言ったらいいか分かりませんが、とにかく「すごいこと」だと心から思いました。
「父親ってのは、こういうものなのか」
僕の中での父親像が出来上がった瞬間です。
「理想の父親」という壁
この地震のときの体験は、僕の人生に大きな影響を与えることになりました。
なんせ父親の条件が
「数十年に一度の災害が起こったときでも、身を挺して瞬時に子どもを守れること」
ですからね。
なかなかのハードルです。
まぁ自分が勝手に掛けた枷なんですけど、ずーっと考え続けてますね。
「同じような状況になったとき、果たして僕は父親と同じ行動ができるだろうか?」
僕にとってこれは、自分が父親になるための課題であり、大きな壁でした。
この問いに対して自信を持って答えられるまでは、父親になってはいけないような気がしてたんですよね。
でも、それがちょっと払拭できる機会がありました。
結婚することになったとき、初めてそのことを父親に伝えたんです。
地震のときに感じたこと、それが僕の中で壁になっていること、今でもそれを不安に思っていること。
すると父親は
「そんなこと考えてたんか(笑)」
と笑いながら言った後、
「お前なら大丈夫や」
と言ってくれました。
それを聞いて、スーッと楽になったのを覚えています。
もちろん不安が完全に消えたわけじゃないですけどね。
それでも「大丈夫」と言い切ってくれたおかげで、「大丈夫かも?」と思えるようにはなりました。
そして約 2 年後、息子が誕生。
幸いなことに、僕が身を挺するような出来事はまだありません。
が、地震当時のイメージは常に頭の片隅にあります。
いざとなればあんな風に、僕も体を投げ出して子どもを守らなければ……。
そんなことはない方が良いんですけどね(^_^;)
それでも常に覚悟はしとかないとなぁ、とは思いつつ日々過ごしています。
「追悼のつどい」に家族揃って参加
今日は神戸・三宮の東遊園地で行われた「追悼のつどい」に、家族揃って参加してきました。
(朝はさすがに無理なので、夕方の黙祷の時間に合わせて)
去年は妊娠中の奥さんと二人でした。
子どもが産まれてからは初めての参加です。
地震を機に「父親」というものを考えるようになって、その追悼の場に父親として立っている……。
25 年という月日の長さを感じますね。
子どもは抱っこ紐の中でずっと寝てたんですが、黙祷 1 分前から始まるアナウンスと時報で起きちゃいました。
ぐずりそうな子どもの背中をポンポンと叩いて、ユラユラ揺れながらの黙祷。
なかなか感慨深いものがありましたよ。
今年は人の数がいつもより多かったような気がします。
25 年という節目だからでしょうかね?
竹灯籠に近付くことも難しいくらいでした。
来年もまたみんなで参加したいですね。
そうやって子どもの成長を感じるのも、素晴らしい体験になるような気がします。